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山田うどんにサブカルチャーの真髄を見た『愛の山田うどん』

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ーー僕は山田うどんは本邦初、和のアイテムだけ使ってダイナーを実現したのだと思っている。

えのきどいちろうにそう断言されて、あ、と思った。
えのきど・北尾トロ『愛の山田うどん 「廻ってくれ、俺の頭上で!!」』所収の「山田うどんロードサイド論」の一文である。
あ、と思っただけじゃなくて、やられた、とくやしくもなった。たかがうどんのことで大のおとながくやしがることはないんだけどさ。それは私が言いたかったな。

『愛の山田うどん』という本について簡単に説明しておきたい。
これはライターの北尾トロが編集長を務める季刊誌「レポ」発で生まれた、史上初の「山田うどん」オンリー本である。北尾とえのきどは毎週火曜日に「レポTV」というネット放送の番組を行っている。その中で2人に共通の山田うどん体験があることが判明したことが発端だった。10代後半の貧乏だけど時間だけは売るほどあったころ、2人は山田うどんに遭遇した。味は普通だが、安くて量が豊富な山田うどん。若者の食欲を満たすには最適の場所だ。当然の如く定期的に通うことになったが、何しろ提供されるのはごくごく普通のうどんである。過度な思い入れを抱くこともないから、環境が変われば足も遠のくのも当然だ。
そうして数十年が経過した後、2人は偶然にも同時に山田うどんを再発見してしまったのである。おっとっと、罪だぜ山田うどん。事の成り行きとして「山田うどんとはなんぞや」という命題に取り組むことになり、周囲を巻き込んで1冊の本をまとめてしまったというわけだ。このライターの「形にしてしまう強さ」のことは最後に書く。

「山田うどん」チェーンを経営する法人は、正式名称を山田食品産業株式会社という。以降、本書の記述を参考に会社の沿革を紹介しよう。
1935年に創業者の山田量輔が埼玉県所沢市日吉町に手打ちうどん専門店を開いたのが、そもそもの始まりだ。1964年に所沢市上安松に本社を移転、1966年には欧米のドライブイン方式を採用した専門食堂を本社前でオープンした。早くからアメリカのフランチャイズチェーン方式に目をつけ、1968年には後に4代目社長となる山田裕通を渡米研究させている。海外進出も意外なほど早く、1975年にはニューヨークのマンハッタンにラーメン店「TARO」を開店している(現在は閉店)。このときに裕通はアメリカのフリーウェイを視察し、ケンタッキーフライドチキンの廻る看板の存在を知った。それを取り寄せて所沢の本店に設置したのが、山田うどん初、いやおそらくは日本初の回転看板だったのである。

そして話は最初に戻る。えのきどいちろうが山田うどんを日本初の「ダイナー」と規定するのは、以上の理由による。ダイナーとは19世紀末にアメリカ合衆国内に存在した移動式屋台を起源に持つ大衆食堂だ。ホットドックやハンバーガーといった大衆食は、みなこの移動式屋台から生まれたものである(アンドルー・F・スミス『ハンバーガーの歴史』)。やがて固定店舗となり、特にロードサイドに設置されたそれは長距離旅行者に便宜を図るようになった。
夜遅くまで開いているなど営業時間が長く、安価なダイナーは外食の機会を広範な層に向けて提供するものだ。それがアメリカの食習慣を変え、文化を規定するものになった。ポップアートの旗手エドワード・ホッパーにダイナーを題材とした作品が多いのは、そのためだろう。ダイナーのある光景は、誰にでも機会が平等に与えられるアメリカ社会の象徴なのだ。しかし平等で均質であるということは、自らが特異点となる機会を逸するということでもある。だからダイナーを背景として描かれた人物は常に非個性的で孤独に見える。
モータリゼーションと大量消費を前提として出現した20世紀アメリカの象徴、ダイナー。その日本版が実は山田うどんの巨大看板だったとは!

ーーそれは日本のロードサイドにエドワード・ホッパーが持ち込まれた最初の瞬間だったのではないか。僕は異形のもののように突然、所沢で輝き、廻りだした山田のかかしにしびれる。UFOなのか。UFOじゃないよ、山田だよ。こわくないんだよ、うどんだよ。山田うどんだよ。

そういえば映画「未知との遭遇」の日本公開は1978年のことだった(「スターウォーズ」も同年)。少年たちが映画館で息を殺して巨大宇宙船を見つめていたとき、すでに山田うどんの看板は、静かに埼玉は所沢で廻り始めていたのだ。少年期にそれを見た中には、山田うどんの五文字が原風景に擦りこまれた者もいるだろう。自分がいかに/いつ山田うどんと出会ったか(『未知との遭遇』風に言うと、第一種から第三種の接近遭遇をいつ果たしたか)は、関東圏のある地域に住む者にとっては自身の「地元」観を検証するための尺度になるのである。山田うどんは関東限定のチェーンだが、おそらく同じような風景の中の標識が各地方に存在するだろう。東海地方における「スガキヤ」や北陸地方の「8番ラーメン」などは、そうした「原風景の食堂」なのではないかと私は考える。

少々脱線する。自分語りを許していただければ、私の原風景の中には「山田うどん」がない。理由は簡単で、1970年代に父親が車を手放したため、モータリゼーションからほど遠いところで少年期を過ごしたためである。
私の家族は1972年に、できて間もない多摩ニュータウンに入居した。団地発展史の中で見ると、比較的後期の団地入居者である。実は、ここ数年の〈団地ブーム〉に私は拭いがたい違和感を抱いていた。ブームに乗って〈団地のある風景〉を愛で、その居住性を賞賛することがどうしてもできない。かつてそこに住んでいたとき、団地とは自由の効かない不便なものであった。設立当時、私鉄の延伸が遅れてバス以外の公共交通網が存在しなかったため、多摩ニュータウンは陸の孤島と呼ばれた。私の家族はその中で車を所有しない生活を送っていたのである。それでもなんとかなったのは、多摩ニュータウンの「団地」にその中だけで生活可能な完結した空間があったからだろう。そういう場で生活していると、山田うどんのようなロードサイドの産物に出遭うことはないのだ。
原武史は労作『団地の空間政治学』において、団地の都市計画がモータリゼーションやベビーブームといった変化に対していかにも無策であったことを指摘している。いわばそうした社会の変化から切り離された形で私の「団地」は存在していた。
そこから引っ越し、ロードサイドの存在する一般的な「郊外」を目撃するのは、15歳以降のことである。すでに原風景は形成され終わり、ロードサイドの光景には強烈な違和を感じた。前掲の文章でえのきどが書いている淋しさには既視感を覚える。

ーー[……]若者だった頃、僕はその光景に少しいらだっていたと思う。郊外ロードサイドの量販店の看板。ありえないくらいでっかく「靴」と書いてある看板。強い色の発光看板。オレンジを見たら僕は牛丼を連想する。ガソリンスタンドはいつも光のなかにある。そのなかにいると自分はものすごく匿名的だ。他に行くところがない。

なるほど、と思う。10代のえのきどや北尾にとって山田うどんは、そうした匿名性にとまどったときに飛び込む避難所のようなものだったのだ。2人と一回り年齢が違い、「団地」で過ごした10代の時間を過ごした私にはよすがとなるものが無い。この違いは意外と大きいということを、山田うどんが教えてくれた。『愛の山田うどん』の読書体験は、そうした形で原風景論にも発展していく。私よりもさらに山田うどんから遠く、他の原風景を持つ読者は、また違った感想をこの本に持つのではないだろうか。広がりについて考えていくのが実に楽しい。

えのきどの文章だけにとどまりすぎた。それ以外にも楽しい論考が多数詰め込まれた本である。北尾トロは「うどんの国から」と題した文章で、世の中がコシのあるさぬきうどん至上主義に塗り替えられていく風潮に異議を唱えている(特別寄稿の平松洋子も書いているが、京都のうどんにまでさぬきうどん化の予兆が見られるという)。山田うどんはそうした風潮に背を向け、あくまでも「いつもの味」であることに徹する。その態度を北尾は高く評価するのだ
北尾の論考を読んで思い出したのが速水健朗『ラーメンと愛国』だ。もはや国民食といわれるラーメンの歴史について再検討した速水は、1970年代に端を発する「地方の時代」をラーメン文化変容期として規定する。道路交通網整備によって国土は均一化され、誰でも、どこにでも行くことが可能になった。そこで事の必然として観光事業が発達していく。食文化も変容した。「ご当地」の名物が観光客を呼ぶための切り札となることがわかったためだ。ラーメンも同様で、1970年代に喜多方ラーメンが「発見」されたことが格好の先例となり、1980年代になると各地でご当地ラーメンが考案され、あたかもふるさとの代表食であるかのように喧伝されるようになる。フェイクの郷土食が創造されることにより、そこで偽史が誕生したのである。
博多うどんの愛好者である私は、さぬきうどんのコシ賛美が無批判に広められていく現状に戸惑いを覚える。むろん香川県で現地のうどんを愛している人の責任ではなく、ましてやさぬきうどんの罪でもない(ごめんね、さぬきうどん)。だが、どこかで偽史が作られている気がしてならないのだ。だから本書の執筆者たちが偏愛する山田うどんには特に思いいれはないが、その独自性が保たれることを望む姿勢には強く共感を覚える。日常食とはそういうものだからだ。山田うどんは今「キてる」ものではなく、これから流行るわけでもない。これまでずっとあり、これからもひっそりと存在し続けるだけのものなのである。
本書によって自分の中の山田うどん性に気づいた人は、ことさらに行動を起こさず、静かにそれを愛していったらいいと思う。私は本書を読んでいたく感銘を受けたが、わざわざ山田うどんの店舗を探してまで食べようとは思わない(近所に存在しない)。正しい山田うどんとの接し方だろう。食べる人は食べる、食べない人は食べない。それでいいじゃないか。

本書の著者であるえのきどいちろうと北尾トロは、「食べる」ひとびとであった。巻末の「国道50号線・山田うどんの旅」という文章では、現在山田うどんが最も注力しているという北関東の国道沿いにある店舗を制覇する旅を行っている。この熱中のしかた、おもしろがりかたがいかにもライターのもので、いいなあと思った。2人は山田うどんへの愛を叫び続けて代表取締役会長である山田裕通との面談を実現する。残念ながら、本書の執筆期間中に山田会長は亡くなるのだが、次男の道朗氏から生前に使っていた仕事着の白衣まで貰ってしまうのである。形見分けだ。ちなみに道朗氏はミュージシャンで、現在「レポTV」のオープニングテーマは彼の曲が使われている。どこまで山田と親しいんだよ。家族ぐるみのつきあいかよ。
しかし、これこそサブカルチャーの真髄というものではないか。ライターがおもしろがるという行為が道筋を作り、一冊の本になった。本になっただけではない。山田うどんという切り口から日本の食の現状が見え、文化のありようが露呈していく。その展開を導いたのは、えのきどと北尾の純粋な好奇心だった。その強さは素直に見習わねばと思う。とりあえず私も明日からがんばる。うどん食ってくる。稲庭うどんだけど。
(杉江松恋)

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